中甚兵衛に学ぶ 現代の治水工事

台風19号を契機に治水工事の必要性が認識されるようになった。私がご紹介するのは、江戸時代初期、大阪市南部を流れる大和川の付け替え工事に尽力したなにわ中河内発展の礎を作ったといって過言でない人物である。彼は、1639年(寛永16年)現在の東大阪市今米に庄屋の息子として生まれた。父九兵衛は、再三再四にわたる天井川である大和川の付け替え工事嘆願も志を果たせぬまま亡くなってしまう。父の遺志を引き継いだ甚兵衛は、先祖伝来の土地家屋、田畑がつぶれるため付け替え工事予定地の住民達と激しい反対運動にあいながら幕府に嘆願活動を行った。しかし嘆願も認められず事業の進展はなかった。以前に幕府は、淀川と大和川が合流する辺りから河口改修も行ったが、河川決壊、洪水などの被害があとを断たなかった。その間も多くの人命と家屋、田畑もが流され、農民は、先祖伝来の土地を離れ逃散し、ある者は、没落農民として1699年(元禄2年)治水工事が終了した後も大洪水が続き、年貢が全く納められない事態となった。1703年(元禄16年)、甚平65才、苦節50年にして幕府の許可が得られ、普請御用を任されるまでになり、無事、付け替え工事を成し遂げた。その工事の人足たちは、ほかならぬ土地家屋、田畑を洪水で無くしてしまった農民たちである。今も残る大正天皇より賜った叙勲ならびに叙勲記念碑があり、大和川付け替え三百年碑も彼の功績を称えたものとして残っている。

参考資料
大阪市立図書館
中甚兵衛資料コーナーより

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Nakabe Hiroshi

私は、現在車椅子が必要な体ですが、その辛い経験や今の体になったからこそ多くの問題点も発見しました。このサイトを通じて色々情報交換ができればと思っています。 また、Facebook、twitterにも投稿しております。よろしければ一度見ていただければと思います。