阪神・淡路大震災からすでに20年以上の歳月が流れた。まさに地震当日は、町そのものの見る影もなく、皆生きることだけで精一杯であった。私も、運のよいひとりであった。阪神高速、阪神電車、阪急電鉄など日常使う生活の足が、ストップし、しかも今のようなネット社会でなく、必要な情報さえ入手することが困難だった。連日、マスコミでも「地震はどうしておきたのか」、「建物の強度不足」だとか被災者目線の情報が全くといってない状態だった。読売テレビ、上岡竜太郎さんと鶴瓶さんのトーク番組「EXテレビ」の中で被災者目線の番組がない。今必要なのは、学者や評論家のメカニズムや批判の話でなく、どこにいけば食料や毛布、日用品がもらえるかなどの情報だと。今、信じられないだろうが、そのとき、おにぎり一個300円、ペットボトル一本350円などそんな値段がまかり通っていた。それでも手に入れば良い方で何時間も何時間もまたなければならなかった。水、食料、日用品など生活必需物資も不足するなか善意の輪が広がり、多くの人の行動力が、被災者の心を奮い立たせた。東日本大震災の時、皆、心も体もズタズタになっていた。一枚、一枚、一冊、一冊、思いでの写真やアルバムを津浪のあとから見つけ出すボランティアの方々の姿を見たとき、胸が熱くなった。阪神・淡路大震災の善意の心をそこに見た思いだった。そこにボランティアの原点を見たような気がした。 阪...
Nakabe Hiroshi
私は、現在車椅子が必要な体ですが、その辛い経験や今の体になったからこそ多くの問題点も発見しました。このサイトを通じて色々情報交換ができればと思っています。
また、Facebook、twitterにも投稿しております。よろしければ一度見ていただければと思います。
脊損である私が台風19号で学んだことがある。日本列島を広範囲にわたって被害をもたらした台風19号。土砂崩れや河川の氾濫で多くの人命と財産を奪っていった。「早めの準備と避難」と頭ではわかっているものの実際、移動するタイミングとマンパワーの確保が課題となる。多くの場合、マンパワーの担い手である職員の不足、職員自身の被災など大きな課題がそこにあるからだ。私は、保育園や介護施設などの防災計画や避難訓練を実施してきた経験がある。不測の事態に対応できる対処法もマンパワーもないのだ。行政も災害弱者は保護される存在であって、保護する立場でないと。訴えを聞くだけは聞いておきます。けれどというスタンスだ。「耳が聞こえにくいから防災サイレンに気づけない」、「車イスだから高台に自走できない」、「一般の避難所の設備では過ごせない」、「知らない人や場所ではパニックになってしまう」、「少し我慢しよう。もうちょっと我慢しよう」等課題山積である。自治体においても「避難行動要支援者リスト」を作成し、要支援者を把握するためのリスト作りが進められているが、有事の際に機能が発揮できるか不透明である。しかしながら、日頃より地域の人たちと関わりを持ち、災害時の支援を得たり、避難生活を円滑にしていくために地域力は不可欠であり、障害者自身の意識改革も重要なファクターだ。 1つの提案であるが、地域の災害弱者を災害から守るための障害者...
台風19号を契機に治水工事の必要性が認識されるようになった。私がご紹介するのは、江戸時代初期、大阪市南部を流れる大和川の付け替え工事に尽力したなにわ中河内発展の礎を作ったといって過言でない人物である。彼は、1639年(寛永16年)現在の東大阪市今米に庄屋の息子として生まれた。父九兵衛は、再三再四にわたる天井川である大和川の付け替え工事嘆願も志を果たせぬまま亡くなってしまう。父の遺志を引き継いだ甚兵衛は、先祖伝来の土地家屋、田畑がつぶれるため付け替え工事予定地の住民達と激しい反対運動にあいながら幕府に嘆願活動を行った。しかし嘆願も認められず事業の進展はなかった。以前に幕府は、淀川と大和川が合流する辺りから河口改修も行ったが、河川決壊、洪水などの被害があとを断たなかった。その間も多くの人命と家屋、田畑もが流され、農民は、先祖伝来の土地を離れ逃散し、ある者は、没落農民として1699年(元禄2年)治水工事が終了した後も大洪水が続き、年貢が全く納められない事態となった。1703年(元禄16年)、甚平65才、苦節50年にして幕府の許可が得られ、普請御用を任されるまでになり、無事、付け替え工事を成し遂げた。その工事の人足たちは、ほかならぬ土地家屋、田畑を洪水で無くしてしまった農民たちである。今も残る大正天皇より賜った叙勲ならびに叙勲記念碑があり、大和川付け替え三百年碑も彼の功績を称えたものとして...
わずか三歳の幼子が両手、両足を失い、障害を乗り越え人生を真正面から生きた人。その人こそ私に生きる勇気と希望を与えてくれた中村久子女史です。生きる意義や生きることの辛さ、それらを乗り越える人間の大きさ。ありのままに、ありのままに受け止め、人一倍の努力を惜しまない姿勢こそ彼女が成せる生きざまであり、人生そのものだ。私もまた脊損によって四肢麻痺の身となり、一度は人生に終止符を打とうとした身である。脊損患者の多くは、そんな苦しく、辛く、絶望と戦いながら、死と向き合っている。人は、人によって苦しめられたり、悲しんだりもするが、希望の灯を照らす存在でもある。今一度、大きな灯を掲げようと思う。好きな言葉に「敬天愛人」がある。その言葉通り、天を敬い、痛みや苦しみを理解し、助けることのできる人でありたいと頑張っています。
台風19号の爪痕が広範囲に広がり復旧活動が急がれる。私も、阪神・淡路大震災を経験し、脊損になる以前は、ナホトカ号原油回収、中越地震、水俣市水害、東日本大震災等にボランティアとして参加した。現地の人の悔しさ、悲しさ絶望とどう声をかけていいのか わからない自分自身の弱さと無能力、無知さ加減に腹をたてたものだった。活動が終わるといつもそんな私にも笑顔で「ありがとう」と声をかけてくれる。その一言にどれだけ救われてきたことか。また次もという気持ちになる。困ってる方々を国境、言葉やはだの色、宗教を越えて助けてやろう、ほっとけない、ちょっとでもという温かな心を持った人がまだまだ多い。活動は、きっと困っていらっしゃる方々にとって生きる勇気を与えてくれると信じます。本当にありがとう。こころからありがとう。みなさんありがとうございます。
かれこれ7年前になるだろうか。私は、一匹の捨て犬の赤ちゃんを拾った。泥まみれのまるで濡れねずみのような。名前もなかった。こたつに電気を入れ、ホームセンターで買ったミルクをその子犬に飲ませてやった。その子犬も私がけがをするまですくすく育った。犬の名は、スバル。辛いとき、悲しいとき、うれしいとき、怒っているとき、いつもよく話を聞いてくれる家族であり、友であった。病気をしてから間もなく、別れの日がやって来た。私は、いつ退院できるかわからない。二度と会うことも。おもいっきり抱いてやった。頭とのどをさすってやった。そして最後に「可愛がってもらうんやでスバル」と何度も何度も声をかけ、友人にスバルを預けた。私は、その後も幾度と生死を分けた病が襲った。何度も何度も父母やスバルの夢をみていた。辛い病院生活、心も体も自分の体でなかった。生き続けることも、死ぬことさえも許されない暗い長いトンネルに入っていた。ある日、車椅子に乗る訓練を外でしていると遠い木かげに犬が見えた。懐かしいまだ幼い子どものころの面影が残るその姿を。走馬灯のようによみがえった。 涙が止まらなかった。心の底からあるだけの声と力を振り絞って「スバル」。一直線に。わき目もせずただ一直線に。枯れてしまっているはずの涙が止まらなかった。「クンクン」とただ「クンクン」と。私は、力をもらった。生きる力を。そして勇気を。あり...
脊椎損傷の患者は、術後の後遺症と体の不自由さの葛藤から暗いトンネルに入ってしまう。私もまた例外でなく長い暗いトンネルに迷いこんでしまった一人だ。頸椎2番、5番、胸椎10番、12番まさに自分で息さえ、そして死ぬことも許されない体になった。しかし、多くの周囲の方々、私の場合、子どもたちの励ましのお陰で生きる勇気と希望の光をもらった。少しでもよくなろう。きっとみんなとおしゃべりしよう。元気なときには当たり前にできてたことの大切さをこれほど感じたことはなかった。そしていつの日かきっとよくなる。苦しんでおられる方々の少しでも、ほんの少しでも力になろうと昼夜を惜しんで、自分にできることを何回も何回も。セラバンドがちぎれるくらいリハビリをした。勿論、四肢麻痺なので体全体が力が入らず、痛さも熱さも鈍感で少し動いた指先だけの辛いリハビリになった。しかし、天は私に奇跡というプレゼントをくれたのです。自分の意志で食べた一切れのパン、心の奥から感謝の気持ちが溢れでた。「ありがとう」、「ほんとうにありがとう」と。今は、自分で好きなたこ焼きを食べることも、手で字を書くことも、目でテレビを見ることも、そしてスマホやパソコンで多くの方と語らうことも、そして何より自分の意志を伝えることもできるようになった。できないことを考えるより、できることがこんなに増えたと思えるようになった。一番苦しかった時に笑顔で暖かく接して...
私は、以前保育園に勤務しておりました。子育ての大切さと同時に保護者のみなさんが抱える子育ての悩みがあることを知っています。その多くの悩みや不安を口にできず、幼稚園や保育園に悪い印象を持たれたらどうしようと考える親御さんもいるのではないでしょうか。園はそういった悩みをしることこそ大きな財産なのです。政府は、幼稚園や保育園の無償化をはじめたわけですが、私は、そういった悩みの中から産み育てやすい環境作りと共に税制優遇のバックアップの提言を三点挙げさせて頂きます。この他にも色々なアイデア、御提言あるかと存じます。ご意見お寄せいただけたら幸いです。①子育て支援住宅(マンション)子育てしやすい住宅をたてる方も借りる方にも資金面、管理人常駐など安心、安全をバックアップ。②子ども病気休暇制度子どもは、インフルエンザをはじめ多くの感染症にかかります。親御さんが、職場を休める環境作りをバックアップ。③子育て扶養控除拡大制度 子育て世代を税制面でバックアップ。現行プラス30万で生活のゆとりを。笑顔で明るく輝く子ども達のために。最後まで読んでいただきありがとうございました。ご意見、ご感想お待ちしております。
416年に起きた地震の記録が日本書紀に記載されている。有史以来、日本は災害大国であり先人の犠牲の上に成り立っていると言っても過言でない。来る南海トラフ地震も歴史書を紐解けば過去に13回、約100年から150年周期で大きな被害をもたらしている。①白鳳地震②仁和地震③永長東海地震④康和南海地震⑤正平東海地震⑥正平南海地震⑦明応地震⑧慶長地震⑨宝永地震⑩安政東海地震⑪安政南海地震⑫昭和東南海地震⑬昭和南海地震である。地震の予知はできないものの地震の発生周期は、地層や歴史文献などから概ね推測可能である。いつ、どこで起きてもおかしくない地震大国日本。不測の事態に備え、今こそ総力をあげて減災に取り組む必要があるのではないでしょうか。追記家族防災会議を必ず開きましょう。①避難場所②避難経路③緊急連絡先④非常持ち出し品など南海トラフ地震南海トラフは、九州南部から四国、紀伊半島、そして駿河湾へと延びる水深4000級の溝のことである。南のフィリピン海プレートと北のユーラシアプレートとの境界部と考えてよい。フィリピン海プレートは、下に沈み耐えきれなくなった莫大なエネルギーが、大陸を揺れ動かし、津波をうむ仕組みだ。太古よりこれらの場所では、巨大地震が発生し、上記に記述したように、記録に実に13回残っている。その一例をご紹介しよう。1498年、室町時代、南海トラフ沿いの地震が発生。記録にある被害分布が、安政...